da-ra’s blog

読む人に、少しでも何か与えられたら

『その手の動き』ができるやつは、なんか一人前

こんにちは!だーらです。

 

21歳も半分が過ぎ、自分の進路を考える時期になりました。

 

進路を考える上で、皆さん自己分析をなさるのではないでしょうか?

「自分が小学生のとき、どんなことに感情が動いたのだろう?」という、ありがちな問を自分にかけます。そこで出てきた一つのエピソードを、今日は紹介したいと思います。

 

読んでも大して得ることはないのであしからず。

 

題して、

「『その手の動き』ができるやつは、なんか一人前」

です!

 

 

学童保育に入った僕が出会ったボス

両親が共働きしている僕は、15時に小学校を追い出されてもすぐに家には帰れません。そんな子どもたちのための学童保育に、僕は小学校の入学式前から入れられました。

 

初日、学童保育の入り口でおばあちゃんと別れる悲しさ。

涙越しに覗き込む教室内で楽しそうに遊ぶ見知らぬ子どもたち。

 

さて、どんな小学生でも、男子コミュニティの中には、ボス的な存在がいたかと思います。

学童保育のコミュニティでも、それは例外ではありませんでした。

 

1年上の2年生に、庶民を束ねる求心力のあるボスがいました。

 

 

 

 

「いただきます」の前に判明する、彼の技術

ボスには、一つの特技がありました。

それは、夕方ごろに設けられたおやつの時間に発揮されます。

 

先生の掛け声とともに、おやつの時間が始まります。

 

(先生)「皆さん、おやつの準備はできていますか〜?」

 

(生徒)「はい!」

 

(先生)「はい、では、手を合わせてください」

 

(生徒)(手を合わせる)

 

そのときです。

ボスは、特技を発揮します。

 

両手を合わせるボス。

ここまではみんな(庶民)と同じ。

 

ここから彼のステージが始まります。

 

合わせられた彼の両手。

その第一関節より先が、突如右に傾き始めます。

 

と、瞬く間に、第一関節より先は左に旋回し、同時に第一関節と第二関節の間の部分が右方向に動き始めます。

 

呆気にとられていると、第一関節先再び右に、第一関節と第二関節の間は左に、そして第二関節より根本の部分は右に遷移しています。

 

動画を御覧ください。(僕の再現動画の質は当時のボスのものに劣ります)

 

www.youtube.com

 

なんときれいな動きなんだ!!

童心の僕にとって、その動きは圧巻でした。

 

 

そのボスと仲の良いグループ、及び、そこに入ることを狙う庶民たちは、彼の動きを真似し始めます。その手の動きが出来ることが、一種のステータスのようになっていました。

 

(庶民)「どうこれ??」

(ボス)「お!?? いやーまだまだだな〜、見てみ。」

(庶民)「う〜ん」

(ボス)(その手の動きを繰り返す)

 

 

 

しかし、数週間も経てば、この手の動きが出来る庶民が出てきます。

その成金庶民は、ボスのお墨付きを得て、ドヤ顔でそれを披露します。

 

僕を含め、他の庶民たちは成金の手の動きを複雑な気持ちで眺めます。

 

「ボスよりはきれいじゃないけど、まあでもボスが認めたからなー…」

 

家に帰って練習します。

 

少し出来るようになってくると、お母さんにドヤ顔で披露します。家の中では、僕以上にこの手の動きができる人間はいません。我が家において、この手の動きの滑らかさという軸で、僕の右に出る人はいません。

母親は、全く興味を示しません。

 

 

学童で披露します。

 

ボスに承認されるかされないかは、ボスの気分によるところがあり、その日は見向きもされませんでした。

帰り道、おばあちゃんに披露します。

おばあちゃんは、笑顔で僕を褒めてくれました。

 

「おれにだって、この手の動きができるんだ!!」

 

 

時は経ち、いつしか僕も、ボスから認められていました。

 

正式に認められたかは覚えていません。多分、注意されることがなくなったことを以て、僕はその手の動きができると認められたのかもしれません。

いづれにしても、僕はその手の動きをドヤ顔で披露することができるようになりました。

 

 

めでたし、めでた…

 

 

既にボスは次に領域に行っていた

 

話はそこでめでたく終わりません。

 

僕がその手の動きができるようになってすぐ、ボスは新たな手の動きを生み出していました。パイオニアでした。

 

今度は、手を合わせません。

 

右手だけ。右手だけで、同じように波を起こします。

自由端反射の、この波です。

(僕の再現動画の質は当時のボスのものに劣ります)

 

www.youtube.com

 

この手の動きver.2を見せられて、僕は思いました。

 

「また頑張らないといけない…つらいな。

でも、かっこいい…」

 

 

僕はまた努力しました。

そして、これもできるようになりました。

 

ボスは、新たに編み出したこの手の動きver.2に飽きていました。

僕も、ボスが飽きた時点でその手の動きver.2の魅力からは開放されていました。

 

 

 

 

無理やりFindingsを見つけよう

仮にも、このしょうもなすぎる話からFindingsを見つけると、(本当に書きながら流れで考えたので、深く思慮してないです、、、)

 

僕らは「他人ができて、自分の出来ないこと」に対して、強く注意が向くかと思います。

そして、それが社会的に注目されていたりすると、よりその注意は強くなり、自分がそれを出来ていないことに焦りを感じるようになるかと思います。

 

 

例えば、これだけITの時代で、AIに『負けない』という意味の分からない対決が叫ばれていて、FBの広告にはプログラミング関連のものばかりが並び(これは僕にパーソナライズされているだけ?)、小学校でプログラミングが必修になり、エンジニアの求人倍率がえげつないことになっていると、

あたかもプログラミングを学ばないといけないんじゃないの??

みたいに考え出す人が増えるのではないでしょうか?

 

 

でも、それは「その手の動き」現象かもしれません。

 

他人の芝は青く見え、自分も盲目的にそれが欲しくなる。でも、いざ得てみると、それでどうするんだっけ?

 

目的なくProgateやっても、結局Ruby使うときなんてなかったりね。

 

 

僕は、プロダクトをまるっと作れるようになりたい!!!という思いが一応あって、一度はやめたプログラミングを本気でやり始めたところだと思っています。

でも、その1年前に初めて Ruby on Rails を勉強したときには、全く目標がなく、ただ友達がやっていて、流行っているから、でした。

結果、全く意味はありませんでした。

 

 

もしかしたら、今も「その手の動き」現象に苛まれていることもあるかもしれないです僕自身。

まあでもそれはそれで、あとで意味が無いと気づくのもまた意味があるかもしれないし、実は「その手の動き」が後々奇跡的に生きることがあるかもしれないけど(今年Rubyやったときは一応復習という形でできたし)。

 

でもどちらかといえば、他人がキラキラ見えたって、自分にとって本当にそれが必要でなければ、追いかける必要はない、ですね。

 

 

 

 

追記

ちなみに、ボスのお父さんに会ったとき、そのボスのお父さんも「その手の動き」ができました。しかもボスよりきれいに。

なんだ〜、ボスもお父さんの技を披露していただけだったのか〜〜:)

 

 

 

以上です!